突然ですが。

2002年5月29日
時代劇が好きです。
そのせいか、歴史が好きになりました。
で、いろいろと考えるようになりました。
今日は「島原の乱」のお話し。

島原の乱(寛永14年〜同15年)は天草四郎時貞という美少年(本当かどうかは不明)がキリシタンを激励し、幕府に戦いを挑んだというものです。
しかし、ひねくれ者のオレは、その話を額面どおりに受け取る気がさらさらなかった。
気に入らないのだ。
教科書で教える事件の経緯も、事件の結果も。
何より時期が気に入らなかった。
そして、ある本に記載された、わずか数行の文章を見て、自分の勘の正しさに興奮した。

「・・・ルソンに先遣隊を送ったが、小浜温泉で湯治中に農民体の一団に襲われ憤死した」
島原城の歴史を紹介した本にはそう記されていた。

立派な暗殺である。

こうした事件には、ほとんどと言っていいほど裏に誰かがいる。
そこで仮説と幾つか立ててみた。
そして辿り付いた結論に、オレは歴史の面白さを痛感し、再び興奮していた。

島原の乱という一つの事件は、一見して抑圧された農民たちが、信仰の力を借りて団結し、強大な権力に対抗しようとしたと見られがちだが、あにはからんやそうではなかった。

オレが出した結論は、あの事件は幕府が構想を練った対外計画であるということだった。

当時、幕府は有益大名7家に限り、懐柔の意味も含めて独自の貿易を許可する書状を与えていた。
これがいわゆる朱印船貿易である。

しかし、徳川家にとって最大の障壁である豊臣家が消滅した以上、外様大名に遠慮する必要もなくなった幕府は、自らの基盤を確固なものにするためにあらゆる手を遣いはじめた。

法の整備、大名の統制、外交政策を幕府政治の三本柱とした閣僚は、自分に都合のいい法律を発表し、違反した大名を潰すことで恐怖心を与え、幕府の勢力拡大に励んだ。
そして、幕府が一番やりたかった政策を実行に移す機会を待っていたのである。

その機会こそが島原の乱であり、政策とは世に言う鎖国令であった。

つづく。

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